更新日:2011年4月1日
広報そうか 第364号 昭和56年7月5日号
豊作を願う松明の列
(7)稲虫送り(西町)
その昔、農民の命である農作物を脅かすものに、水害や干害と並んで害虫の被害がありました。
稲作地帯として栄えた草加でも、稲につくウンカやシンクイ虫といった害虫は最も恐れられていました。
そこで、これら害虫からの被害を防ぐために行われていたのが、虫送りといわれる風習です。
原島(現在の西町)には、古くからこの風習が伝えられ、稲虫送りと呼ばれて太平洋戦争が始まるころまで続けられていました。
稲虫送りは、毎年七月の上旬ごろ、雨上りの夜に行われていました。このころは、田植えも終わり農家にとって一息つけると同時に、稲につくウンカやシンクイ虫といった害虫が発生するときでもあるからです。
稲虫送りの日には、村中の各農家から必ず一人が出て松明を持って神明宮に集まります。そして、その年の当番に当たった人は、農作物やお酒を持参し、また、女たちは煮物をつくったりしました。
夕方になると神社の拝殿で、みな車座になってその年の豊作を願いながら酒をくみ交わしました。
当時、娯楽の少なかった村人たちにとって、稲虫送りは害虫退治の行事であると同時に、小さなお祭りでもあったようです。
やがてあたりが暗くなったころ松明に火がつけれら、村人たちは一列に並んで神社を後にします。
「稲虫送りー」、「稲虫送りー」と松明を手に一人ずつ声をかけ、稲に虫がつかずに豊作になるように祈りながら、ゆっくりとあぜ道を進みました。
前年に不作だった村人たちは、特に念入りに声をかけ、細いあぜ道まで入りました。
この様子は、明かりがなかった時代だけに、はるか彼方からも見え、さながらきつねの嫁入りのような幻想的な光景だったといわれています。
しかし、この稲虫送りも、太平洋戦争に入ってからは中止せざるを得ませんでした。それは、まっ暗な田んぼの中で火をつけると、敵の飛行機の目標となって、爆弾を落とされてしまうからです。日本中に燈火管制がしかれていたときだけに、稲虫送りだけを例外とするわけにはいかなかったのです。
戦後になると、強力な農薬が出回ったため稲につく害虫は一掃され、同時に稲虫送りもしだいにすたれていってしまいました。
しかし、神明宮では今でも、七月上旬にワラ束を燃やしてその年の豊作を願い、かつての稲虫送りを今に伝えています。
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