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草加を訪れた俳人たち

更新日:2019年10月1日

松尾芭蕉(1644年から1694年)

松尾芭蕉は日本最高の俳人のひとりで、世界中にもその名を知られています。伊賀上野(現在の三重県伊賀市)で生まれ、幼名を金作といいました。20歳ごろから日本や中国古典を学び、俳句を作りはじめ、1675年に江戸へ出て水道工事などをしながら俳句を作り続けます。
その数年後に深川に居を定め、俳句の師匠である宗匠になります。その家に植えられていたバショウ(バナナの仲間の植物)が大きく育ち、住まいが『芭蕉庵』と呼ばれたことが、俳号『芭蕉』の由来です。
1682年、この芭蕉庵が火事にあったことをきっかけに、芭蕉は日本の各地を旅するようになります。
1689年に『おくのほそ道』の東北の旅へ出て、1694年に旅先の大坂(大阪)で亡くなるまで、芭蕉は数多くの名句や紀行文を残しました。
松尾芭蕉

正岡子規(1867年から1902年)

正岡子規は明治時代の俳句の第一人者です。伊予(愛媛県)松山藩士の子に生まれ、松山中学校中退後、上京して大学入学を機に文学の世界へ傾倒します。松尾芭蕉の俳句が持つ詩情に、言葉でスケッチをするような写実性を加え、新しい俳句の世界を切り開きました。
1894年、子規は高浜虚子を同伴し、草加まで吟行に来ました。「梅を見て野を見て行きぬ草加まで」という句が紀行文『発句を拾ふの記』に残されているほか、句集『寒山落木』に「鰤くふや草加の宿の梅の花」という句があるように、草加に訪れた際に料理屋でブリを食べたことがうかがえます。
一説には、この子規と虚子の草加吟行について、「近代的吟行の記念すべき初回である」という説もあります。

正岡子規

高浜虚子(1874年から1959年)

高浜虚子は、正岡子規と同じく伊予(愛媛県)松山藩士の子に生まれ、子規に俳句を学んで俳句の道にすすみ、俳句の改革運動をすすめました。
虚子は上野根岸(台東区)『子規庵』にて子規と同居し、俳句の研鑽に励みます。1894年に日光街道を千住から梅島、竹ノ塚を経て草加まで歩き、昼食を済ませて引き返して西新井大師を参詣し、王子まで抜けて帰宅したと紀行文『発句を拾ふの記』に残されています。
虚子が俳句会で満足のいく俳句が作れずに沈んでいたために、子規が実地研修を兼ねて吟行へ誘ったことが、虚子の俳人としての出発となったのです。

高浜虚子

水原秋桜子(1892年から1981年)

水原秋桜子は、神田の産婦人科の病院の家庭に生まれ、自らも俳句を学びながら医師の道へとすすみます。医学部の先輩らに誘われたことで句会に参加し、やがて高浜虚子に師事することになります。
東京から春日部の病院に通った秋桜子にとって、通勤経路の途上にあった草加を詠んだ句を数多く残しています。
「草紅葉草加煎餅を干しにけり」の句は、草加の宿場町で草紅葉の赤さと、草加せんべいの白い生地という二色のコントラストを詠んだ句です。

水原秋桜子